入院が決まって (1)
娘は産まれてからずっと"てんかん"との二人三脚。
養護学校の小学部までは発作を短時間に繰り返す重積状態になっていた。乳幼児期は毎年春先から発作が増え始め4月くらいから3ヶ月程度入院するのが常だった。
市立こども病院でずっと入院の付き添いをしていた、当時はボンボンベッドという折りたたみの簡易寝椅子に布団を持ち込んで子供用の高い柵のあるベッドの下に寝ていた。
なぜ今こんなことを書いたか、28年経った今また入院をすることになったから。
最後の入院は28年くらい前?10歳ぐらいからそれまでは発作は無くならないが入院をしなければいけないような状況は回避できていた。
娘の成長と共に私もベテランの域になって、自宅で坐薬を駆使してコントロールできるようになっていた。
「食事が摂れるのなら自宅でお母さんが対応してもいいです」と許可が出てこども病院への入院はその後なかった。
「難治性てんかんで障害のある人が成人してもそのままこども病院に通い続ける事ができます」と確認していた、はずだった。
でも成人した娘がこども病院から弾き出された、丁度東区に移転する時期でこどもではないからと体良く追い出されたようなものである。当時は発作がコントロールできていたから軽い病状の成人を外したかったのだろうが、娘はそんなあまい"てんかん患者"じゃなかった。
小児から成人したてんかん患者で障害のある人の受け入れ先はほぼ無い、それまでの分厚いカルテも個人の情報ではなく病院のもの。それまでの治療歴は膨大な量となり新しい病院がたった数行の紹介状で分かるはずもない。
初診時から診て頂いたドクターは定年で小児の福祉施設に移動されていた、厄介な難治性てんかんを診てもらえる病院を紹介して欲しいと頼み巡り会えた女医さんは優しく良く話を聴いてもらえた、薬を調整しながら発作をコントロールできる日々が続くと思っていた。
事情があり先生が診療できなくなった3年くらい前から重積状態をコントロールする事ができなくなった。何をしても止まらないこども病院当時の悪夢が蘇った。
新たな診療をしてもらう病院に紹介状を書いてもらっていたが、そこでは娘を診る事ができなかった。重積を止める術をご存じなかった、信じられなかったけど事実だった。
そこから福岡山王病院のてんかん・すいみんセンターを紹介してもらった。
難治性てんかん患者の抗てんかん薬は、発作を繰り返し発作の形が変わるごとに増えていく、効いていないかもしれないけど効いているかもしれない、だから必然的に多剤投薬になる。
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